すべての仏さまは、とても優しくて温かいお心をお持ちでらっしゃいますね。そんな仏さまと私たちの大きな違いは「慈悲のお心」の大きさでございます。

皆様方の周りに「仏さまみたいな方だ」といわれる方はいらっしゃいませんでしょうか。その方は、人より「慈悲のお心」が大きい方でございます。

では「慈悲のお心」とは、どのようなお心のことでしょう。

簡単に申し上げますと、「愛」と「許し」でございます。
仏さまは、すべてを許し、すべてを愛し、温かく包み込んでくださるお心をお持ちでらっしゃるのです。

「愛」には、すばらしい力がございます。
愛ある言葉は相手を元気づけます。愛ある行動は、相手に感動をあたえることができます。愛は生きる勇気を与えることができるのです。

そして、「許し」も、とても大切です。
許すということは、相手のためだとお思いかもしれませんが、自分の心の救いのためでもあるのです。許しの心がなければ、恨みや憎しみの心とともに苦しい時間を過ごさなくてはなりません。相手を許すことによって、恨みや憎しみの心が消滅して、再び笑顔を取り戻すことができるのです。
また、相手を許すことにより、すばらしい贈り物を授かることができます。それは、心の器でございます。相手を許すことによって、ご自身の心の器が少しずつ大きくなるのです。その器は、人々の哀しみや苦しみをも受け入れられる温かい器でございます。

この「慈悲のお心」が大きければ大きいほど、多くの方に愛され、慕われるようになるのです。

美しい天国にいらっしゃるお子さまは、お地蔵さまから「慈悲のお心」を、ちゃんと学ばれてらっしゃいます。
私たちは人間だから、時にはイライラしたり、感情的になったりすることもあるでしょう。失敗したり挫折したりすることもございます。
そんなときは、優しいお子さまの姿を想像してください。あの子は、どのようなお母さんでも、ちゃんと許してくださり、そして愛してくださいます。

私たちも、お子さまに負けないよう「慈悲のお心」を少しずつ大きくする努力をされてはいかがでしょう。天国の赤ちゃんは喜んで応援してくるはずですよ。
昨日、私の母が入院し、緊急手術をしました。

手術はすぐに終わったのですが、傷口がひどく痛むらしく、涙を流しながら「痛いよう 痛いよう」と、悲痛な声をあげていました。そして私の方にゆっくりと手を差し出してきたので、私は思わず母の手を握ったのです。
すると母も、ぎゅっ、と私の手を握って、傷口の痛みに必死に耐えていました。

ふと、私の頭の中に『母の手を握るのは何年ぶりだろう。』そんな思いがよぎりました。
そういえば、今まで、恥ずかしくて母と手をつないだ事などないように思います。
もしかすると、幼稚園か低学年のとき以来かも・・・。
だとすれば、約30年ぶりくらいになるのでしょうか。

約30年ぶりに握った母の手は、少し"かさかさ"していたけど、とてもやわらかく、そしてとても暖かかった。

しばらくして、少し痛みが落ち着いてきたらしく、力強く握っていた手が弱まってきました。ただ、私の手を決して離そうとせず、優しく撫ではじめたのです。

きっと、母も、約30年ぶりに握る息子の手に、いつまでも触れていたかったのだと思います。
そんな母が、とても愛しく感じました。

次の日、痛みはだいぶ治まっていたらしく、母の笑顔がありました。
私が面会に伺ったときは、父がいたのですが、しばらくして帰ったので、私と母と二人きりになり、久々に、いろいろな思い出話をしました。
子供の時のこと、友達のこと、楽しかったこと、悲しかったこと、母の愛、母の失敗談、2人でいろいろな懐かしい話に花を咲かすことができました。

ただ、昨日、私の手を握った感触が忘れられなかったのか、今日も会話中、ずっと私の手の上や、太ももの上に、手を置いたり、撫でっぱなしだったのが、なんとも言えず、あいらしく感じました。

夕食の時間には、母が「ここの病院食、おいしいから食べてごらん」と料理を私の口に運んでくれました。さすがに、こればかりは恥ずかしかったです。

母親というのは、子供がいくつになっても母親なのですね。
子供に対する愛情は、幼いときから決して変わっていないのだと感じました。
ただ、子供の自立を願う気持ちや、照れくさい気持ち、環境への配慮などで、あえて距離を保っているだけなのだと。
母はふと小声で「入院して、よかった」と言いました。

母が退院したら、もう手を握ったりすることはないと思うけど、でもこの入院で確実に母と私との心の絆は深まったと思います。

水子になってしまわれたことは大変悲しい出来事ではございますが、あの子が教えてくれたことはそれ以上に大きなものもあると思います。

あなたの天国の赤ちゃんに対する慈愛のお心は、あの子からの大切な贈り物です。
天国の赤ちゃんを愛する心と同じように、あなたは愛されて生まれてきて、そして、今も家族の愛に包まれていることを教えてくださっているのです。

それは、あの子からのお慈悲なのですよ。
天国の赤ちゃん、感謝しましょうね。
「あなたの宝物はなんですか」と聞かれたら、なんと答えますか?

家族?
愛する人?
家?
車?
笑顔?
優しさ?

いろいろな宝物があるかと思いますが、私は「学びの心」だと思います。

学びの心で世の中を見渡せば、周りは感謝にあふれています。
その心を学ぶことができれば、必ず幸せになれるのです。

どれほどお金があっても、どれほど豪華な家で暮らしていても、どんなに美しい愛する人がいても、この心がなければ真の幸せを感じることはできないと思います。

この学びの心があれば、どんな出会いがやってきても、どんな出来事が起こってもすべてを感謝にかえることができるし、すべてが良き出会い、良き出来事であることに気づくことができるのです。

子供を亡くすという悲しい出来事も、いつまでも悲しむばかりではなく、赤ちゃんの宿った意味を学ぶのです。そして、あの子の願いを考えて学びに変えるのです。

喧嘩をしたら、相手ばかりを責めるのではなく、相手を許すことを学ぶのです。次に自分自身を見直してみるいい機会だと学ぶのです。

この苦しみを乗り越えたとき、見守りくださる清らかな魂、支えてくださった方々、この生かされている命など、多くの感謝の気持ちが芽生えてくることでしょう。

人間だから、間違えることも、失敗することも、イライラすることも、怒ることも、相手を傷つけてしまうこともございます。
そのようなことは、お地蔵さまや、水子さまはちゃんとわかっているのですよ。
どんな自分をも受け入れてくださり、そして慈愛のお心で包んでくださる慈悲のお心をお持ちです。

大きな失敗をしたり、誰かを傷つけてしまったりとき、逃げ出したくなるときもあるでしょう。
そんなときは、お地蔵さまやあの子の想いを感じるのです。
お地蔵さまやあの子に見守られているということが、大きな勇気をいただくことができるでしょう。
そして、その勇気をもって相手に許してもらえるまで謝罪しようとか、誠意を見せようとかそういう決心をするのです。
その失敗や勇気から学ぶことは、それ以上に大きいものもあるはずです。

私は、あなたの幸せを心から願っているのです。

いま、つらくて苦しくて、どうしようもない方もいらっしゃるでしょう。
できることなら、あなたの涙をふいてあげたいし、抱きしめてあげたいです。
あなたを笑わせてあげたいし、優しい言葉をかけてあげたい。
あなたに、いつも笑顔でいてほしいと、心の底から願います。

私でさえそのように思うのだから、天国の赤ちゃんはもっと強く願っているはずです。

私にできることは、水子供養を通じてあの子から教えてくれた大切な贈り物や、幸せに気づける方法をあなたに伝えていくこと。

常光円満寺の水子供養を通じて学びの心を感じていただくことを願っております。
仏教のお話に『芥子(けし)の実とゴータミー』というお話がございます。

お釈迦さまの時代、コ-サラ国の首都である舎衛城の町にゴータミーという一人の女性がおりました。
この女性は結婚してなかなか子宝に恵まれなかったのですが、何年か経ち、ようやく待望の男の子を授かったのです。彼女は本当に喜び、母としての深い愛情で一瞬たりとも目を離すことなく大事に大事に育てました。

ところが、その男の子は生後4,5ヵ月で突然亡くなってしまうのです。ゴータミーは最愛の我が子が死んでしまったことを受け入れることなど到底できません。
小さな小さな亡骸を抱えて、気が動転して
「どなたかこの子を生きかえらせてください。どなたかこの子を生きかえる薬を作ってください」
といって狂ったかのように町じゅうを叫びまわるようになりました。
そんな彼女の姿をみて、多くの方々は涙をされるのですが、誰もどうすることもできません。

そんな時、お釈迦さまが祇園精舎から舎衛城の町へ、托鉢に来られたのです。

ゴータミーは、お釈迦さまの姿を見るなり、お釈迦さまの元へ向かい、
「どうか、この子を生きかえらせてください。どうか、どうか、お願いします」
と顔をくしゃくしゃにして、涙ながらに頼まれたのです。

お釈迦さまは優しく
「ゴータミーよ、お前の子供を生き返らせてあげよう」
と言われました。
彼女の瞳が輝きはじめます。

「では、生き返らせる薬の原料となる芥子(けし)の実をもらってきなさい。だたし、まだ一度も死人を出したことのない家からですよ」
と言われました。

ゴータミーは喜んで早速、芥子の実をもらいに一軒の家を訪ねます。

ゴータミー「すみません、芥子の実をいただけませんか」
家の方「芥子の実ですか、お安いご用ですよ」
ゴータミー「少しお聞きしますが、お宅さまは今までに死者を出したことがありますか?」
家の方「昨年、おじいちゃんがなくなってねぇ」
ゴータミー「すみません。お宅の芥子の実では駄目です」
といって他の家を訪ねるのです。

ところが、どの家どの家を訪ねても死者を出していない家などないのです。
中には、自分と同じように幼子を亡くされている母親もおられます。

一軒一軒、訪ね周って行くうちに、彼女は少しずつ正気を取り戻してまいります。

「最初は私一人がこんな悲しい思いをしているものだと思ったんだけど違うんだ。みんな、悲しみに耐えて生きているんだ。」
そのことがわかって彼女はお釈迦さんのもとへ戻っていきます。

お釈迦さまは
「芥子の実はもらってきましたか?」
と語りかけます。
するとゴータミーは
「いえ私には、もう芥子の実は必要ありません。この子をこのまま安らかに眠らしてあげようと思います。」
といわれた、という仏教のお話がございます。

当山では毎日、水子供養をさせていただいておりますが、お供養された後、毎月のようにお参りに来られる方も大勢いらっしゃいます。
そして、ありがたいことに、ほとんどの方が、笑顔で挨拶をしてくださいます。

初めて来られた時は、きっと悲しみの心に包まれていたと思います。それが、この悲しみを乗り越え、みなさん笑顔で接してくださるのです。

水子さまのお参りされている間は、やはり涙される方も大勢おられますが、しかしその涙は、悲しみの涙ばかりではなく、あの子の温もりや優しさを感じた涙でもございましょう。

悲しみを乗り越えて、笑顔で接してくださったり、温もりの涙を流されるようになったり、そのような心の移りかわりは、本当に美しいものでございます。

昨年、私は身内を亡くしましたが、皆様方のそのお姿は、私に大きな勇気をいただきました。

私の悲しみの心を救ってくれた、皆様方、そして水子さまに、これからも感謝の気持ちを忘れないようにしたいと思います。
先日、心温もるメッセージを見つけました。
是非、皆様方にお読みいただきたくてご紹介させていただきます。

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昔、ヨーロッパで沢山の赤ちゃんが捨てられた。

その当時の大王さんは赤ちゃんを集め、二つのグループに分けて、悲しい実験をした。

Aグループの赤ちゃんはミルクをあげる時、必ず、抱き上げ声をかけ、目を合わせ愛情と共にミルクを与えた
Bグループの赤ちゃんは絶対に抱き上げず、声もかけず、目も合わさず、触れる事なくただただミルクを与えた

愛を与えて育てた子どもと、愛を与えずに育てた子どもはどう違うのかという悲しき実験。
実験は失敗した。

なぜならば、Bグループの愛を与えずにミルクを与え続けた赤ちゃん全員が大きくなる前に亡くなった。
その実験で分かったこと。

人は食べ物や飲み物だけで生きているのではなく、愛によって生かされている。
つまり、今、生きているということは、誰かに愛されたから。
愛の深い両親の元、生まれてくる人もいれば、両親がいても、仕事が忙しくて、愛された記憶がない人もいるだろう。
片親の人もいれば両親がいない人もいる。
与えられた愛の量はそれぞれ違う。
でも、今、生きているということは、必ず誰かが抱きしめてくれたから。

それはお父さんか、お母さんか、おばあちゃんか、おじいちゃんか、近所の人か、お姉ちゃんか、お兄ちゃん、仲間かもしれない。

誰かが声をかけてくれたから生きている
誰かが抱きしめてくれたから生きている
誰かが微笑んでくれたから生きている
誰かが愛してくれたから生きている
それを忘れないようにして生きてゆこう。

人と比べる必要はない。

あなたは愛されて生きている
それは間違いなく事実なのだから。

今、肉体を持って生きている。
その肉体を持つということは、可能性を与えられているということ。
次は自分が誰かの命を繋ぐことが出来る。

自分が声をかければ
背中をさすってあげれば
微笑みかけてあげれば
多くの命を救う事が出来る。

そう、一人一人、誰かの力になれる。
誰かを支えることが出来る。

今日、自分の愛を意識していきよう。
声をかけること
ふれること
微笑むこと
愛す事を意識していきてみよう。
それは、人だけにじゃなく、木や花や大地に対しても。

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これはてんつくマンさんの載せられていた素晴らしいメッセージです。

お子さまを愛する気持ちと同じように、あなたは愛に包まれているのです。

そしてお子さまを愛する気持ちを他に向けることによって、
生かされる命もたくさんあるのです。

その想いも、お子さまにとって幸せでございましょう。

愛って、生きる源なのですね。

心の中で、これからもお子さまを愛して、そして生かしてあげてくださいね。
副住職でございます。本年も宜しくお願いいたします。

昨年、私の身内の不幸がございました。

その日の朝まで元気だった人が、急に逝ってしまいました。

まだまだこれからという矢先の、あまりにも、はかない最後に、残された私や家族は、悲しみと虚しさにあけくれる本当に辛い毎日が続きました。

そんな悲しみにくれていた弱い私を立ち直らせてくれたのは2つの救いがあったからでございます。

1つはお参りくださる皆様方の姿でございます。

先祖供養や水子供養などのお参りの方は、いつも笑顔で接してくださいますが、みんな、あの悲しみや苦しみを抱えているのですね。
その悲しみを乗り越えての笑顔なのだと改めて痛感いたしましたし、その姿は私に大きな勇気を与えてくれました。

もう1つの救いは、故人との付き合いのあった方でございます。
多くの知り合いの方から、生前のことを教えていただきました。
ずっと無口だと思っていたのに、本当はよくしゃべる愉快な方だったなことや、花などの植物の名前や育て方に詳しく、動物なども愛する優しい人柄、気の張らない性格、いろいろな表情が伺えることができました。

ちゃんと、みんなの心の中に生きていたのです。

そして今、私の心の中では、生前とはまったく違う表情で生きています。


皆様方の心の中には、可愛いお子さまが生きてらっしゃることでしょう。
決して、多くの方の心には生きていないかもしれませんが、この世に見ることが叶わなかったお子さまは、あなたのすばらしい想像力によって、どのような表情にも生まれ変わります。


本年の私の目標は「おかげさま」にすることに決めました。

昨年は多くの「おかげ」をいただいて、「笑顔」取り戻すことができました。

それに私たちは、目に見えないところで多くの「おかげ」をいただいて生活をしております。
そんな「おかげ」に「さま」をつけさせていただいて「おかげさま」
不思議と心が和む、いい言葉ですね。

この「おかげさま」の心を大切に、本年も真心を込めて、大切に水子さまのお供養させていただきます。